寛解に至って思うこと

ここを一年以上更新してないってことは、完全に寛解してるってことで、ほんとうに、よかったなあ。
やってることは再発前とそんなに変わらないわけで、心の持ちようが違うだけ。
それだけでこんなに楽なら、なんであんなに苦しんだのだろうと思うけれども、そういうことって、とても難しいことなのだろう。

ここ2年位はあのうつ状態みたいなものは全く無かったけれども、それでも数週間から一ヶ月くらいの期間、全くなんにもやる気無し!状態になることもよくあった。それも、無くなったなあ。それが、簡単な気の持ちよう一つでなんとかなることだとわかったのはけっこう最近のこと。

このまままたうつ状態に入ってしまったらどうしよう→なんか長いことぶっ倒れてるけどウツって感じじゃないよな→なんかもうああいうふうにはならないみたいね→まあいいやでもとにかくふつーにやる気しねーし→そうも言ってられないやることいっぱいあるし起き上がるかー→動き出しちゃえば別になんとかなるよなもっと早くやればよかったな→ふつうのせいかつ→あーもーなんかしらんけどやる気しねえもうとにかく休む→最初に戻る
これを、2年やってた(笑)これって、普通の怠け者だわ。学生時代とかほぼこれだったような。

で、最近は「べつにたいしたことやってるわけでもないってのに、なんかしらんけどもう疲れてやる気しねえもうとにかく休む」が、最長でも3日くらいだから、怠け者じゃないふつうのひとだな。「なんかもうやる気しねえけど、どうせ、もうなんもしないで一晩寝ればなんとかなるから。だめでも別に数日で復活するから」と思えるんだから、なーんて楽なんだろう!

どんなに自堕落にしても、「またうつ状態に入ってしまったらどうしよう」という恐怖感はもはや無い。そういう記憶の回路がやっと塗り替えられたのらしい。2年かかって。気の持ちようを変えるってのはなかなか大変なもんだな。
説得力を持つために2年という期間が必要だったようだけど、本来、「べつにどってことない、だいじょぶだし」には特に根拠なんか無いもんだ。そういう根拠のない安心を失ってしまったら、そりゃ、取り戻すことは困難だ。なにしろ、根拠が無いんだからな!

ほんとは、今日、今にでも大災害が起こる可能性はあるわけだけど、根拠なく「だいじょうぶ」と思えてるからふつうに生活できてるわけで、それと同じことだ。ほんとうに大丈夫かどうかはともかく、大丈夫って思えることはかなり大切なことだ。今が大丈夫じゃなかったら、大丈夫じゃない時のための準備もできないし。準備がなかったら”不安”が”根拠のない大丈夫”を蝕んで、どんどん大丈夫じゃなくなっていくし。

不安を抱えていようと、根拠なく安心していようと、やってくる現実に対してできることは同じだ。できることしかできない。
でも、そのバランスが崩れると、効率が悪くなって、できることもできなくなっちゃう。

そして、過剰な不安と過剰な期待というのは表裏の関係なんだなと思った。
いつの間にか、以前ほど自分に期待していない自分がいる。
コップに半分入っている水を、「半分しか入っていない」と思うか、「半分も入っている」と思うのかの差だと言うけれど、
「半分しか入っていない」と思うと、なんか、感覚的には、どんどん減る気がするんだな。
「半分も入っている」と思うと、半分の豊かさに目を向けることができる余裕で、増えていくんだよな。
「ありのままでいい」って言う言葉に、つい、「向上心ねえなあ」とか思ってたなあ、随分若い頃から。それは、「ありのまま」から目を背けようとしてるからだ。「そんなに悪いもんじゃないよな、けっこういいよな」って捉えることができれば、それなりに伸ばすことだってできるけども、目を背けていたら、身にならないに努力ばかりし続けることにもなるよな。
ま、身にならない努力も、それはそれでいいんだけど。無理しないと広がらない可能性ってのも、特に、若いころにはあるから。でも、もうとっくに大人なんだから「たまには無理してみるか!」くらいの気持ちでこなしたいものだ、と、思う。