きっともっと元気になれる

仕事再開して1年経った。
とりあえず、続いた。さして問題もなく。
健康な人と比べたら疲れやすいようだけれど、「ちょっと体の弱い人」くらいの効率でやっていけている。別にちっともカラダ弱くないけどね。(笑)
一週間くらい寝込むこともある。だけど、寝込んで「この世の終わり」にはならない。普通に病気の人みたいに寝こんでる。で、そのうち治る。
持続力が無いから、最低限のことしかできない期間が続いて、その取り戻しが必要で、ホント効率が悪い。
自分のイメージの半分もこなせてやしない。
でも、それを大きなストレスとして受け止めなくなった。このことだけは、本当に自分は変わってきたのだと思う。
そもそも、今の生活でお金なんかあんまり必要ないのだ。
それが気にかかるのは、自分の収入がイコール自分に対する社会的な評価だと思い込んでいたからに過ぎない。
そんなつまら無い価値観に私も洗脳されていたんだなーとびっくりする。


私の作った商品が思うように売れないのは自分の努力不足なのだと思い込んでいた。
そんなことねーし、と気付くし。
買う人は買っているんだからねー、2年以上のブランクがあって、大幅な値上げまでして、それでも愛用し続けてくれるお客様がいる。
それに、「あ、ここの商品一度買ってみたいな。」と思いつついつまでも買わないなんて、自分を振り返ってもよくあることだ。「まあいいや、いつもので。」って、それに大した意味は無い。なんかのきっかけで買うことだってあるし。そんなもん、たった一人で思うようにコントロールできることじゃない。
気長にやりゃいいのだ。良い物を作り続けるだけでいい。結果は忘れた頃に出るんだなこれが。どうやら。
良い物が続かないこともある。自分の不調が作品に反映されてしまう。
それでもいいや、って思えるようになった。
私が不調な時の作品としか出会えなかったお客様とはもともと縁が無かっただけのこと。
逆に、縁があるお客様ってのも不思議といる。そして、またそれも絶対じゃないし。なんとなーく縁が切れるってこともある。
そんなよくわからない流れの中でやっていって、それで十分なんだ。
自分のできる範囲でできることならちゃんとやっているんだから。
頑張っていないつもりでいて自分がどれだけ頑張っている人間かってことをつい、忘れそうになるけれど。


たまーに、このブログにありがたいコメントをいただくのと、ほとんど同じ。
コメントを書く人が一人いるなら、書かずに気に入ってくれた人はその数倍いるわけで。見えないけどね。
一般受けするもののつまならさを感じているからこそ創作に向かっているというのに、「なんで一般受けしないんだ!」って嘆くとか、バカだったな、私。



こうやって、あーまたちょっと疲れて息切れしちゃったなー、なんてこと繰り返しながら、
こういう時に、昔思ったのは、
「キリが無いこんなことでは」という焦り。
なんか最近違うんだよね。
「あー私まだあんまり健康じゃないな」って思っても落ち込まない。
「もう少し時間が必要かも知れないけど、私、もっと元気になれる余力があるんだな。」って思う。
そして、自分のペースで普通にやっていれば、なーんにもしなくてもほっとけば元気になっちゃうなそのうち、って信じられちゃうんだよね。
楽しみだな、って思う。
もっといろんなことできるなそのうち、って思う。
若くもないのに。まだこれから、未来がある。


これがいわゆる希望というやつか。知らなかったわ。(笑)









それにしても、どうしようもなくストレスになってしまっていることは相変わらず家族だ。
そして、経済的な自立が難しい以上ここにいるしかないわけで、このジレンマでどうにもならずうつの再発となったわけで。
だから精神的な距離を取るしか無いわけで。
なんだかもう、とにかくこの家は疲れる。
そして、多分、自分自身がもう、家族とかそういう関係の持ち方が無理な人間らしいので、そもそも求めてもいないみたいなので、もう、どうでもいいや。
先日も、どこやらの国の大統領とやらが来て、幸福ってのは大切な人との時間を使うことだみたいなこと言ってたみたいで、なんか世間はショック受けたり関心したり色々なようだけど。
・・・・・・大切な人とかいないし別に・・・・・・ということになっちゃうんだけどね私。
別にモノを持っていることが幸福の基準だなんて全く思わないし、欲しいものなんてそんなに無いけど。
人もそんなに、ていうか、ほとんどいらねえ・・・・。
不便じゃない程度に人間関係がないと困るけど、実際困ること多いんだけど友達いなくて。
でも、友達を維持する労力のほうがもう無理。
自分の好きな信頼できるような大切でこの世にいてほしい人ってのは別にいるけど、なんかもう、そういう人たちがそれぞれ不幸じゃない感じで存在してくれていたらもうそんで十分なんだけど。
時々連絡でも取り合う関係なら十分なんだけど。
なんか欠陥なのかもしれないけど、自分の娘でさえそういう存在なんだよね。
超大好きだけど、なんかあったりなんかしたら命かけてなんとかしようとする覚悟なんか平気であるけど、別に一緒にいたいとか思わないんだよねーー。
そもそも元夫とその母のもとで育ったわけで私が一緒にいられたのは彼女が5歳まで。
からしくて親らしい態度なんかできやしなくて、なんだか育った娘は不思議なほど自分と価値観が似ていて、そしたら、まあ、なんて気の合う女の子なんだろう、っていう。あれは、もう、親友ですよ。
で、たまに、遊びに来て一泊二泊していく。
なんの寂しさもない。ああ、楽しかったな、いい子だな、面白い子だなって思う。
なんか、もう、ありがたいくらいに満足だわ。
こんなギフトをいただいてしまって良いんだろうかってくらいの。
もうなにもいらない。
大切に思える男性とも別れてしまったし、結果、それでよかったと思ってるし。
寂しいかと思ったら、そんなことなかった。どうやら、負担のほうが大きかったと気付く始末。
あの人でダメなんだから誰ともだめだわ。
そして、あの人以上の人なんかいないんだから出会えたんだからもうそれでいいわ。
もう、求めたり探したりする必要が無いって楽だ。
猫の一匹でも飼ったら、それで十分なのかもしれないような気がする。
残念ながらまだ度々ぶっ倒れるので生き物を飼う段階じゃないけど。


コップに半分入った水を「半分しかない」ではなく「半分もある」と思えることが必要だという言葉を知って、ああ本当に自分はただこれができないのだと思いつつも、
でも、だって、半分は半分で、いっぱいじゃないんだからだめじゃんかーー!っていう発想以外できなくて。
それが今や、うわ、わたしの半分ってすっげー多いじゃん、とか思ってる。




私は、ただ、きれいなものを作っていたい。
それだけの人で、それで、いい。
私はあまり現実とか日常とかに興味が無い。
人間というものに興味があっても、人間そのものには興味が無い。
私はわたしが勝手に見る夢を、目に見える形にして表現するためだけに生きている。
現実をできるだけ軽いものにして、霞を主食として生きていく覚悟が、やっと、できたからもうそれでいい。
ずっと、欠陥だと思っていたけど、ある意味能力ただの個性。
孤独は不便だけども寂しくはない。
ありがたいことに、それでもなんとか食っていけるだけの環境だけはあって、この世の中とかこの呆れた家族にも、私が生きていけるだけの余地があるってことには驚いて感謝する。何も返せないけどね。