元気の出ない辛さ、の、濃淡

コップに水が半分入っている。
それを、
「半分しか入ってない」と感じるのか、
「半分も入っている」と感じるのか、
っつーのがある。


だいたい、半分しか、って思ってる。
「半分も」って思えたほうが楽だってのは理屈ではわかるけど、
「だって、これじゃあなにもできないじゃねーか」ってなる。
「足らないもんは足らない」とか。
ゼロか一か、白か黒か、っつー思考だ。
半分なんて入ってないのと同じだ。


それがオカシイ思考なのは理解はできるけど、
感覚的にわからない。
いや、だって、やっぱどうしたって、半分しか無いとしか思えない。
どうやったら半分も、なんて思えるんだかさっぱりわからない。
そして、それがわからなきゃどうにもならないのかもしれない、どうしよう・・・・ってなる。


うーん、でも、それが、
どうやら、わかりつつある。


暖かい寝床がある、食べるのには困らない、
という半分の水がある。
倒れているには十分だ。
でも、それはいつだって、半分しか、だった。
「だって、倒れていたいわけじゃないんだもん!」って。


そこにただ、「普通の精神状態」という水さえ入れば、
コップは8割9割は満たされて、そうして初めてなんとかなるもんだと。
そうじゃなきゃどうにもならない、と。
半分の水がもし無ければ今より更に考えられない事態ではあるけど、
それでも、この半分っきりなら、殆ど水が無いのと同じじゃないか、と。


まあ、別に間違ってるわけじゃないんだけどさ・・・・。
そうとも言えちゃうんだけどさ・・・・。


でも、これが、半分の水に猛毒を注いで飲めなくしてしまう思考なのだ。


せめて、安心して倒れていることくらい、できないのか。
まあ、難しいんだけどさ・・・・。
倒れてたって何も事態は良くならないわけだしね。
でも、
「このまま倒れているのは嫌だ」って思いながら倒れてたら、ちっとも休めない。
素直にゆったり倒れていることができれば、
少しづつ、少しずつ、元気の水が湧き出すものだ・・・・
まあ、全然そんな感じは、さっぱり、しないんだけどね・・・・。


受け入れないと手放せない、という真理がある・・・・。
これは、絶対なんだよなーーー、やんなるけども。
ムカツク真理だと、やっぱり、思う。
なんでそんなめんどくさいカラクリになってるんだよふざけてる、って思う。
まあ、ホントは、「実に良く出来てる」なんだろうけどきっと、どうせ。


元気が出ない、これが、延々と続く、これは本当に辛い。
でも、「ただただ、元気が欲しい」としか考えられないと、その辛さは何十倍にも何百倍にも膨れ上がる。
元気がないからしょうがない、これが、どうしてもどうしても、受け入れられない。
でも、受け入れるしか、無いの。
受け入れれば、辛さは、「元気が出ない辛さ」の分だけで済む。
まあ、これだけでも結構なもんなんだけども・・・・。
でも、そこから目を背けずに、嫌な気持ちに囚われないようにそれを見つめていると、
「元気がない」状態の、微妙な濃淡が見えてくる。
真っ暗な時もあるけど、それほどでもない時もある、その区別がつきやすくなる。
それほどでもない時には、楽に出来る何かしらのことがある。
たいしたことは出来やしないけど、それでも、ゼロじゃない。
その、濃淡を見分けることの出来ない目で見ると、グレーは全部黒に見えてしまうのだ。
濃淡が見分けられれば、色々なグレーだ、白じゃないけど、とりあえずグレーだ、真っ黒なんて、そんなに頻繁に無いよ。


半分の水で、一杯分の水が無いと出来ないことをしなきゃならないと、ずっと、思ってた。
だから、いつも、足らない、出来ない。
半分の水を使い切った分だけくたびれて、半分の水でかろうじて出来たことに、何の価値も見いだせない。
もっとできなきゃいけないのに、って。
半分の水で、いつだって、いっぱいいっぱいに頑張って、
そして、わりと色々できてるってのに、これしかできていない、としか感じられない。
そりゃ、常に疲れきっていて、当然、ってゆう・・・。


半分の水で、半分かそれ以下で出来ることだけを、する。
それを、ありがたく感じることが出来る。
まあ、言うのは簡単だけど、実感するのは、難しいんだなー。
でも、なんか、わかってきたんだよ、感覚で。