条件付きの愛

相変わらずだけど、散歩ができるようになった。
夜、繁華街の方に向かって、駅より手前で引き返す。
往復で一時間も歩いていない、4,50分くらいか。
それでも疲れるというか、疲れるという感覚は無くて、脚ががくがくする。


ここ数ヶ月、カウンセリングに行って帰りに駅から家まで買い物をして帰ってくるのにとても疲れる。
足や腰が痛くなる。
年寄りみたいに、すっとしゃがんだり立ったりがしづらい。
さすがに年だな。
昔は何ヶ月が寝込んでもこんなことはなかった。
筋肉の衰えるのが早くなってるんだな。


危機感を感じて歩いてみようと思ったのだけど、どうやら続けられそう。
確実に気分転換になる。
「今日もこれから行こうか?」と思う時にさほどプレッシャーを感じないし、
「早く行きたいな」と思うこともある。


ぶっ倒れ当初、散歩くらいはした方がいいと出てみても、続けることが出来なかった。
歩いている時は気分の悪さを感じないでいることができるけど、
なんだか、「だから何なんだろう?」ってなってしまう。
何より出かけるときのプレッシャーが凄まじくて、それを押さえ込むのがいちいちしんどくて。
そんな苦しい気持ちを押し切って、ただ歩いているその間だけしばし開放されても、
なんだか見返りが少なすぎるって感じ。
そこまでして散歩しても義務になってしまう。
そういう時は「嫌だ」という気持ちを優先してあげたほうがいいのだと考えた。


自分が自発的に始めたことが、
自発的なのか強迫なのかがわからないところが病気なんだよな。
そして、それがそもそも健康な時の悪癖だという。
何もできなくなっても、出来る事が一つ一つ見い出せればそれが回復だと思うから、
これは回復なんだろう。


元々歩くのは好きだ。
でも、それもできなくなった。
そして、またできるようになった。


そう、その前にも、
欲しい物なんて全く無くなってしまった。
でも、少し物欲が戻ってきた。


なんてじれったいんだろうと、ため息が出る。
でも、変化してるんだろう、確実に。


楽しみを取り戻すことがきっと、できるだろう。
そう信じてる。
信じられなくなる時もあるけど。
信じられなくなると、死にたくなってしまうけど。
死ななきゃ、なんとかなるんだよね。


もう繰り返したくない。
物事がうまく行っているようなのに、
突然がっくり力が抜けて何もできなくなる。
実は大きなストレスを抱えていて、それに全く気付けない。
気付けないまま、限界まで持ちこたえるなんて。
そんなことは繰り返したくない。


相変わらず、何もかも楽しくもなんともない。
かろうじて楽しめることがあっても、
9割引きくらいの楽しさ。
それさえ滅多にない。



多分、自分は本来ものすごく我儘なのかもしれない。
多分、そうじゃないような人もたくさんいるのかもしれない。
そして、我儘はいけないことだと世の中に教え込まれるけど、
他人と共存不可能なほどの我儘でなければ、本来押さえ込む必要なんかない。
そして、そんなふざけた我儘を通したら自分だって不快な思いをするのだから、
そんな行動はしなくなるだろう。
でも、大して問題のない自分の欲求まで押さえ込む変な癖ができてしまっている。
そんな足かせなんか要らないはずなのに。


自分を犠牲者だとも思う。
でも、そういう立場を自ら選んでいたように感じる。
私の身近には常に、私の自由な気持ちを押さえつける人間がいた。
何故かそういう人ばかりが身近にいた。
そうして私はどんどん蝕まれていった。


おそらく、私にとって、抑えこまれ不自由であることが「当たり前の世界」だったから、
自分にとって自由な居場所や、開放してくれる人間関係に対して、
一方では心地良いのだけれど、もう一方で混乱や不安を感じてしまうのだろう。


自分を苦しめるものの側にいることが必要だと思っている。
そして、そんな人ばかり見て、気にしている。
気になって仕方ないのだ。


それは多分、両親のモデル・・・・・。


自分のしていることを肯定できないのは、
頭の中に存在するこのモデルがそれをどう思うかを必死で考えて、
そして、否定する言葉を探している。
彼らに肯定されなければ、それはやってはいけないことなのだ。


そんなやつらと何故好き好んで付き合わなければならないのだろう?
世の中には色んな人がいていろんな価値観がある。
自分の好きな人たちだけと親密になればいい。
自分を苦しめる人と何故そんなに真剣に向き合おうとするのか?


私はいつも、
好きだと思う度に理由を考えずにはいられない。
嫌いだと思う度に理由を考えずにはいられない。
何故そんな疲れることをするのか。
何故そんな確認作業にエネルギーを費やすのか。
そんなことする必要なんか無いんだよ。


私には今、心を許せる人が二人だけいるけど、
その二人はそんなに特殊な人だろうか?
今までそういう人に出会えなかったのは、
私が見ようとしなかったからだ。
自分を否定しそうな人ばかりに焦点を当てて、
自分を肯定してくれそうな人は見ようとしなかった。
私が見ようとしないから誰も私に近づかなかったのだと思う。


私を否定する人、私に甘えてく依存してくる人、
自分の回りにはそんな人ばかりが寄ってくるのだけど、
それはそういうふうにして自分で近づけている。



そんなことを思ったのは、やっぱりGちゃんがいたからだ。
こんな気分の落ちに落ちた私にわざわざ手を差し伸べようとしてきた。
そんな男の人が今までいただろうか?
良い状態の私にしか価値を見出さない人ばかりで、
私の苦しみごと私を受け止めようとしてくれた人がいただろうか?


Gちゃんがそんなに特別か?そんなことはない。
弱っている私を見捨てる人ばかりじゃない。
今でも、私のあっちのブログに星を付けたりコメントしてくれる人がいる。
今の私にも価値があると認めてくれる人はちゃんといる。


それに比べて・・・・・笑
酷いもんだな・・・・・・・・・母親・・・・・・・・。
元気になったらこんなことやってほしいわ、とかすぐ言うんだけども。
なんかやっぱり、この人の愛って条件付きなんだよな・・・・・。
なんでずっと気付かなかったんだろう?


何故弟が近づかないのかわかる。
苦しい時に否定されるからだ。
何かをして欲しいんじゃない、ただ受け入れて欲しいだけなのに、それをしてくれない。
「マイナスを受け入れないのは愛情だ」なんていうまやかしに、あの子は騙されない。
いつもそうだった。
わたしは違った。


条件付きの愛情を正常な愛情だと思っているから、
それが苦しいことは感じているのに、そこから逃れられない。
条件がつくのは深い愛だと洗脳されている。
無条件の愛情の中にあっても、条件付きの愛しかたをする人のほうに乗り換えてしまう。
どっちが心地いいかなんてわかっているのに。


自分は、条件付きの愛し方なんてしないんだけどな。
でも、それでも時々、そんなふうになる時がある。
本当はどうでもいいことで怒っていたりする。
本当はそんなことどうでもいいのにな。


あの人もあの人もあの人も、私にはもうどうでもいい人だ。
そんな人たちのことは、もう、本当にどうでもいいよな。



普通に良い人間に見えても、
歪んだ人というのはかなりたくさんいる。
でも、そんな人たちと深くかかわらずに生きていくことはそんなに難しくはない。