頑張って前向きになればなんでもできる?

自分の苦痛をわかってもらえないというのは、一般的にもつらいもんなんだけど。
病気や障害などに対する誤解とか偏見以前の問題だというのが、ことうつ病には付き物でそれもうつのしんどさの一つになる。
「同情なんかしてほしくない」なんて言うけど、同情すらされないという疎外感。


先日の報道特集って番組で「盲聾」の人が取り上げられていた。
見えない聞こえないということの恐怖はどれだけのものだろうかと戦慄する。
そして、それを受け入れ前進する姿には感動する。
それでも、こういうのを見る度に、少しだけ羨ましくなる。
人を感動させることができるということが羨ましくなってしまうのだ。


ツレがうつになりまして」映画の時にも思ったけど、
うつ病体験はドラマチックにはなりようがない。
あの映画で人が感じるのは「奥さんエライな」ではあっても、「ツレさんよくがんばったな」とはなりようがないという・・・。
病気や障害で、他にこんなのは無いよなあ。
苦しい病気と格闘する姿は美しいもんだったりする、人を感動させることがある。
多くの精神疾患は違う。


なんでかっていうと、
やっぱ、一般に、「苦しい思いというのは自らが意志で克服できるものである」っていう、
思い込みで人は生きてるからなんじゃないかな。
だから、「苦しい、辛いけど前向きにがんばろう」ということに感動するようになっている。
自分が経験したことが無いような苦痛であってもそういうストーリーの延長上にあるストーリーだから理解しやすい。


まあ、そんだけじゃないか・・・。
病的なうつ状態なんてのはなったことがない人にはまるで想像できないようなもんだからなあ・・・。
例えば、潔癖症の人なんてのは人に同情されないよね。
「それはそれで辛いのかも知んないけどよくわかんない」がやっと。
なんでそんなことが汚いなんて感じるんだ?って言うような苛立ちが先に立つよなあ。
「自分がおかしい(悪い)」ってことになりがち。


人って共感によって助けられることってあるよなあ。
共感してもらっても頑張るのは自分でしかないけど、力になるよなあ、わかってもらえるってことは。
共感されないというのは攻撃されるが如きの苦痛ではあるよなあ。


頑張ることが美しい世の中で、頑張らないことを選択するということはアンチテーゼみたいなもんだ。
生きてるだけでそういう価値観への抵抗になっている。
だから、怠けてるだけだの甘えてるだけだのっていう偏見がまかり通るんだろうなあ。


そして、実はうつ病になった人こそ、この、「頑張って克服すべき」という考え方を盲信してきた人だっていう。。。
頑張れないということがどんなに辛いかなんてわからんだろう。
頑張って前向きになればできないことは無い、っていう思い込みを基盤に生きてるんだから。


でも、本当は頑張ってもどうにもならないことなんていくらでも普通にある。
失恋とか死別とか災害とか、自分の意志ではどうにもならない。
まあ、そんでも、前向きになることで立ち直るんだけどな。


前向きになることでなんでも解決するってことになってるんだな・・・・。
「前向きになれない状態」が延々と続くのが症状の病気なんて、そりゃ、想像つかないよな。
無理やり前向きになろうとして頑張ったりするとさらなるドツボに追い込まれるなんてな。


うつ病は「前ばっかり見るな」「頑張ってばかりじゃだめだ」と言ってくる何かだ。
私たちの生きる前提を破壊する。だからこそ耐え難い。
でも、多分、それが必要だから存在するんだよな。


統合失調症の妄想という症状も似たようなことが言えるのかもしれない。
「客観性の認められない現実は存在しない」ということを前提に私たちは生きている。
けれど、「客観性なんか無くてもその現実はその人にとっては現実だ」ということを言ってくる何かなのかもしれない、っていうかそうだろうなきっと。


精神疾患って通常生きている人間の価値観への否定なんだよな、やっぱ。
だから不愉快なんだろうな。
まともに生きている人間への嫌がらせ的な側面が確実にあるだろう。


うつ病が生きているだけで「無理して頑張ることに意味なんかあるの?」と問いかけてしまう。
統合失調症が生きているだけで「客観性なんかに意味なんかあるの?」と問いかけてしまう。


多分、こういうことを個人レベルで克服するためにある病気なんだろう。
「無理しないでも行きられる生き方」とか、
「自分の主観を第一にする生き方」とかを、見つけなきゃならないってことなんだろう。


身体障害者が、大切な体の一部を失っても幸福に生きていくことは出来るということを証明してしまうように、精神障害も何か違う価値観を前提に生きることを証明するためにあるんだろう。


障害というのは、そうすると、
「どんな人間にでも存在価値はある」ということの証明のためにあるってことになるんだろうな。


私の鬱が3年間寛解したのはまさに価値観の変換だった。
「気に入らない仕事でも頑張ってやりぬいて生きていくのが真っ当だ」という考え方から降りた。
そして、再発した原因も、
せっかく自分のやりたことを仕事にしたのに自分のやりたくない価値観に合わせたやりかたを自分に強要し自分の本来の気持ちを抑圧したからだ。


って、わかってんのになんでまだ治らないんだろうな。(笑)
理解してるだけでまだ身に沁みてないんだろうな。



克服っていう言葉を使っちゃったけど、きっと克服なんてしなくていいんだよな。
受け入れることなんだろう。


自分の最も惨めな姿を見せつけて、そういう惨めな自分でさえ価値が有るのだと強引に受け入れさせるドSな疾患だよ、全く。


強引な結論付けが自分の特徴だけど、言ってることは泉谷閑示せんせーと同じ結論だよな。


あーあ。疲れた。