完全否定・完全肯定 は非現実

最近、物の見方が少し変わった実感がある。
気に入らないものごとを少し許せるようになったような。
容赦の無い批判を繰り広げなくても大丈夫になった。
そう、大丈夫になった、のだわ。大丈夫じゃなかった、のだよ。
気に入らないものに、「受け入れてたまるか」って食ってかからなくても、大丈夫。
これは、楽だな。


こき下ろしている時はカタルシス効果なんだけど、その後で、自分の現実感覚がおかしくなるんだよね。
「後味が悪い」とかじゃなくて。
「後味が悪い」ならば単純に後悔なんだけど、それと、ちょっと違う。
現実が、自分の感覚がどこにあるんだかわからなくなる。
こき下ろす自分も、そこまでする必要あんの?って自分も、同質に本当だということ、2つの視点が同時にあるい心地の悪さ。そこで、一挙に現実感覚が失せる。全部ウソのような気がする。


どうも、最近は、部分否定ができる。
ここはひじょーに気に入らないんだけど、あそこらへんは良かったなあ、とか。
普通の事なんだけど、これができなかった!
なかなか、快挙だよな・・・・。


頭ではわかってた、なんだって、100%ってことは現実には無い。
でも、100%いいとか、100%わるいとか、そういうことにしたくてたまらない。
そういうの良くない、とか、頭だけで思ってるから、そこを表出しせちゃいけないと禁じることがストレス、表出してもストレス。


多分、こんなダブルバインドを自分の内にたくさん抱えている。
これは、辛いよな。
多分、知的に成熟しているのに感情的に幼稚なのだ。
時々、「頭が良すぎる」なんて言われてしまうのはそういうことか。


私は20代の後半くらいになっても、自分の感じていることがさっぱりわからなかった。
分かるのは、極端な感情だけ。怒りとか、恍惚感とか。
普通の感情は、頭で解釈していた。
そうだ。だから現実感が希薄なんだろう。小さな喜びとか、わからない。


酷いなあ。
こりゃ、完全に環境と自分との相性の悪さに要因がある。
自分の感情を見ないようにしていた子供時代。
そんで、わかんなくなっちゃってたんだなあ。
わからないのは感情なのに、必死で頭でわかろうとしていたのが、10代後半から20代半ばまでの自分。
そして、当然何かとうまく行かず、30歳から鬱に突入。
なるほど・・・・。
極端な感情しかわからない→躁と鬱だけしか無い世界
そりゃ、そうなるか。


そう言えば、今月のカウンセリングの時に雑談で、躁病的な妄想について話していた。
私が会った頃にはぜんぜんマトモだった友達が、
「私、初診の時、院長に『あなたは誰ですか』って言われて、『私は日出処の天子です』って答えて、即入院だったんだよ」って、笑い話。
そのことをやはり笑い話にしてて、それを解釈していた。
「私は神です、みたいな妄想って、普通なら、今物事が何もかもうまくいっている、くらいで済むところのことを、神です、までテンション上げないと把握できないってことなんだろうな、そういうバランスなんだろうな。」
まあ、それと似たようなことが私の中でも起きていたわけだ。狂っているような程度ではなかっただけで。
極端な感情しかわからないということ。


鬱は苦しいが、おそらく、それは懐かしい居場所なのだ。
だからなかなか手を切れない。
それはかつての安全だった。
最早危険なんだけども。
安全だったのはもう思い出すのも難しいほど昔のことなのだけど。


嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」とか、「愛のむきだし」とか、ああいう映画って、健康な人にはどういうふうに見えるのだろう。私にはかなりのリアリティーなんだけど。自己破壊性みたいのがね。
まあ、ああいうのって昔は無かったわけだから、今という時代には何らかのリアリティーが成立してるんだろう。



私はスピリチュアルには関心があるほうだけど、いかんせん、玉石混交の世界なので下手なもんに関わりたくないなーというのがあって、何か気に止まる度にネットで分かる限り色々検索したりするけど、そこもまたぐちゃぐちゃなもんで、判断が難しい。そんな中で、自分なりの現時点での立ち位置を定める作業をしたりする。
私の基準はまず、気になった人物が自分でちゃんと考える力のある人か否かってところ。何かを鵜呑みにしている信者のような人はあからさまに気持ち悪い。
しかし、かなりその辺ちゃんとしている人の中にも、どうも受け入れがたい人物もいる。


スピリチュアルでは無いのだけど、苫米地英人って人の動画をかなり見た。
これがなんというか、まあ、その頭の良さに惹き付けられるわけなんだけど。
やっぱり胡散臭いという結論を出したのは、彼がかつて会った詐欺師と同質の匂いがしたのが決定的なところなんだろうな。
飛躍は、別に問題じゃない。批判というのは矛盾を指摘することだと思っている人が大多数なのだろうが、小さな矛盾はむしろある方がマトモだと思う。それは矛盾ではなくて大概、その部分は未検証なだけだ。大筋がおかしくなければいい。
苫米地の不自然さというのは、脳についてのおそらく真実と思われる考察と科学的で論理的であろうとする姿勢と、変な着メロとかおかしなアクセサリーとかを販売する不自然さに尽きるんだけど。
一方で、スピリチュアルには批判的だということ。
これには、「スピリチュアルは全部偽物だが、自分の手掛けているスピリチュアルまがいは科学的で本物だ」というストーリーが見える。これが不自然なのだ。矛盾ではなくて不自然だということが問題なのだ。


詐欺師というのは、結構いいことを言うし、頭もいいし、魅力的に見えるんだよな。まあ、サイコパスの定義に結構はまるわけで。
ただ、冷静に観察すると、全体像が不自然なのだ。
彼らは嘘ばかり言う訳では無い。本当に良いことを言ったりする。99%真実を言って、1%の嘘でそれを固めるのが優秀な詐欺師なのだと思う。
そして、金銭だけが目的なのではなく、人を支配するという快楽を得て満足するわけで。


人を惹きつける魅力があるほど偽物だという現実があるかもしれない。
悪意がなくて純粋な人間ってのは、頭が良くても結構バカっぽかったり抜けていたりするもので、余りにもきちんとしているような人物のほうが不自然だということはあるのではないかと思う。


まあ、そんなわけで、苫米地英人って人は、その頭の良さと人物的な魅力で人を惹きつけ支配することが目的のように思える。科学よりも、スピリチュアルよりも、自分の方が上に立っていると思いたい人物なのでは無いかなー、と。



まあ、そんなようなことを考えていたこともあって、100%の真実なんて現実に無いだろ?ということを思っていた。そして、それが妙に腑に落ちたのだ。
悪いやつだっていいこと言ったりするし、いいやつだってろくでもないこと言うこともあるよなー。という、ごく普通の現実。
ここに焦点が合うようになってきたのだ。
そこがわかってしまうと、完全否定とか完全肯定とかって、実にバカバカしいわけで。
だから、私はもう、そこからは降りた、ってこと。


平和である。