リアル消耗

リアルに消耗してる。
家の問題に関わるとろくなことはない。
一体これは何の心理ゲームなんだろう?
私はいつも同じ役割を演じなきゃならない。
もう、慣れているもんで、演技は板についている。
でも、こんなもん、所詮演技で役割だ。
全てが嘘ではないけれど、もう、リアルな自分との境界さえわからないほど、板につききっている。
全篇アドリブで完璧な役割だ。
私はそこでただかろうじて安全なだけだ。


それなのに、私はその役割の中で、よく笑う。
本気で笑う。


舞台を降りて憑依した役割を手放すと、こうやって疲労している。
疲労していることに気付かないでいれば、強制終了、ぶったおれる。つまり、欝だ。


ザキヤマとかが不愉快なのは私がああいうことをやっているからだろう。
沈黙のうちに本質が顔を出すと困るから、その場をお笑いに変えている。
笑っていれば安全だ。笑わせておけば攻撃されない。


私はそんなことどうだっていい、自分で考えてよ。
そもそも、そんなもん、共有したくもない。


その人と関わるのは嫌だと思えば、人はその人から逃げる。
仕方なければ、一番楽な関わり方を模索する。
それだけだ。
自分の立場を主張して、それが正しいのだから相手が変わるべきだなんて、傲慢なんだよ。
そんな問題に関わりたくなんか無い。
だから笑える話に変えて乗り切るだけだ。
決してすべらない話だ。
私は終わらせたいだけだ。


安全でない場所に誰が好き好んで近づくもんか。
弟がいつもつかまらないのは、できるだけつかまりたくないから。


まあ、なんだか、こういうことに関しては、男の子は自由でいいな。
男の子が帰ってこなくても、そんなに心配されない。
男の子はめんどくさい女の話なんて理解できないから、母親のめんどくささに取り込まれる危険も少ない。
そうして弟はいなくなっていった。
私は残された。
まだ逃げられない。


人が恵まれている環境と言うかもしれない場所は、往々にして戦場だ。
この小宇宙であらゆる人災が絶え間なく起こりつづける。
全ては隠蔽されている。
この世の悲劇はすべて家庭の中で怒っていることなのかもしれない。


嫌なことなら、嫌々こなすだけのことで、
人間ならそういう能力はあるさ。
でも、そんなことばかりだったら、嫌なことでも好きになろうと頑張ってみたりする、
それはギリギリの処世術だけれども、生き延びることと引き換えに正常な思考や感情まで奪われる。


一体これがわけのわからない生き辛さと無関係なわけがあろうかってなもんだほんとにむかつくわ。


本当のことを言ってしまったらどれだけの呪いの言葉を浴びなければならなくなるか、私は知っている。
ほんとうのこと、
人は変わらない。
少なくとも、「私はあなたのせいでこんなに困っているんだからあなたは変わって下さい」ということを延々と決して諦めずに言い続けるなんてことで人が変わるわけがない。
「私はあなたのためにこんなにがんばっているのだから私のためにあなたは変わって下さい」
頑張って巻いた餌は食われるだけだ。
変わる必要があればその時に人は変わるだろう。
もう、ほんとうにどうでもいいのだこんな家は。
私はただなるべく関わりたくないと思っているだけだ。


さて、幸福がこぼれ落ちる、いつだって。
「ああ、楽しかったなあ」と心から思ったのに、
「そんなのって嘘かもしれない。なんかいい気になっていただけかもしれない。」
なんて、すうっと冷める心。
不本意な芝居ばっかしていたからこんな混乱を産んでしまったのだなあ、きっと。
お芝居の高揚感と現実の高揚感との区別が混乱しているんだなあ。
私が楽しい思いをしたのは舞台の上だけだったから、楽しいことはみんな舞台上のこととして仕分けされてしまうのだろう、きっと。
だから、本当のことを言ったことは間違いないのに、嘘ばっかり言ったような気がするんだろう。
嘘ばかり言っていたから。


人の気持ちに敏感で人の心をつかむのは不得手ではない。
そんなことばっかりやっていたから。
だから私は社会の中で生きる処世術にそんなに困りはしない。
余り失敗はしない。
失敗なんかしないのにただただ疲れてしまう。
だって、別にやりたくもないことを嬉々としてやり続けているんだもの。
そりゃ、人は私をよく思うだろうさ。
細やかな気を使って、失敗は必ず笑いに変えて、全部、サービスなんだもの。


私は心から楽しんだ。
なのに、すうっと冷める心。
だって、それは、サービスとサービスの報酬でしかなくて、
コミュニケーションなんか何にもしていなかったのかもしれないから!


「ぼーっとしているように見えるのに凄く鋭くて怖い」
という評価がある。
当たり前だ。
私の観察力は命をかけて磨いた能力だもの。
そして、そんな観察をしていることがバレないようにすることには余念が無いもの。
ほんとうは、きっと、ただ、ぼーっとしてたいだけなのかもしれない。
ほんとうは、あなたのことなんかぜんぜん興味ないのよ・・・。


私の作る商品はある程度売れて好評でもあった。
それなのに、なんだかちっとも嬉しくも無いような気がする。
だからできなくなったのだろう。


嬉しくないはずは無いのだ。
私は私の作るものを愛している。
なのに・・・・。


心をつかむことなんて簡単だ。
惰性でできる。
そんなことを評価されても何にも嬉しくないとか?


感情の収納場所がこんがらがってる。


どこが不本意な演技でどこが惰性の演技で、どこが私の心からの創作なのか。
不本意と惰性だけが高評価されているような気がする、そんな被害妄想みたいなものか。


理想が高すぎて自分への評価が低いとかいう問題じゃないのは確かだ。
私は例えば自転車に乗れているのだけど、それが本当の現実なのだけど、
私は自転車になんか乗れていやしないんだって必死で言い張っているみたい。


まだすっきりしないけど、
なんか、そんなような混乱。


ああ、めんどくさくてバカバカしいったらないわ。


人に評価されたいのに決まっているというのに、
評価されると気持ち悪くて逃げたくなる・・・・・
そりゃ、生きていけないわよ・・・・。


解除したい。


解除はできるのだ。
大丈夫なんだってなんか思う。
ほっといてもできることになる。
なんかそう思う。
もうそういう方向に歩いているから。


あーあ、健全じゃないって嫌だな。
ほんとにやだな。


あたまくるな。
もはや自分の表現の場さえあるというのに、
大丈夫なのに、
なにひとつできやしねえ。


みっともねえ。
クソ疲れるクソみたいな人生だ。
クソみたいなやつといっしょにされるような始末だ。
もう、いくつになったんだよ。
私の人生っていつ始まるんだよ。
くだらねえ。


べつにいいけどさ。
何もかも。
どうでも。
死ぬまで引きこもって暮らすさいざとなったら。
くだらねえ。


この世の中には普通に悩んだり躓いたりとかしながら普通に楽しんだりして普通に生きていける人もいるらしいね。
大切な家庭とかいう基盤とかを持ってキヅナがあって生きていける人がいるらしいね。
普通に将来の展望なんかを抱いたりできるらしいね。
そんなものは私の人生には何一つ無いんだよ。
欲しいとさえイメージ出来ないんだよ。
クソみたいな人生だ。
クソなのに死ぬこともできねえ。


どうでもいい。
めんどくさいわ。


頭がいい、感性が鋭い、なんでもできる、センスがいい、
あり得ないほど若い、美しい、かわいい、上品、
なのに気取らないかわいい天然ボケが魅力って笑える。
だからなんだよ。
そんでもこのザマだよ。


あーあ、やだやだ、なにもかも!