健全な思考への道

生活はもう、常にどうにもなんもできないわけだが。
それでも、時々何か書きたくなる。
何か書いてはどうでもよくなってただの暇つぶしに明け暮れて、そしてまた、何かを書く。
書くことをやめる気にには、この期に及んで無いらしい。


かなりどんよりしてきたもんで、愚痴でも書きなぐるつもりでこのページに来たら、記事にスターが付いていてちょっとびびる・・・・。ここは全て書き捨てのつもりだからね。何だって書く、と。一貫性が無くても、思い込みでも、なんでも、とにかく書く。そんだけなのに、なんか人の、プラス評価があったので動揺した。


スターが付いたのはノンスタイルの漫才のことを書いたもので、まあ、雑だけど健全だし(笑)、洞察もまあまあな文章。とにかく、ここに書いたものの中では一番、もしかしたら唯一健全なのね。健全って、いいよね・・・。何を語ってもこういう健全さがあれば救いなんだけども・・・。


なんであの文章が唯一健全か?ってったら、あんまり自分に関係無いからだという・・・。あれは、「石田の動きがなんでこんなに気持ちいいんだろ?」ってのがまずあったんだけど、隣にいる井上の、ブサイクなのにそこに何の鬱屈も無いところがなんかちょっとすげーな、と思って見てたら、気が弱くてそれの反動みたいに体がやたらに動く石田との対比が見えてきたんだけど。特別な感情移入が無いから、対象との距離感が健全なんだよなー。


逆に言うと、「対象との距離感が健全」で無いことが多いという問題があるわけね・・・。なるほど。他人と自分との境界がわからない、ってのはどういう意味なのかよくわからなかったんだけど、そういうことか。感情移入し過ぎたり、不自然なまでに否定したりするのは、他人との境界を見失っている状態なのね。ここに最近書いたものでは、男優さんのこと書いたのについては「そこまで志戸って人を持ち上げるのは変」だし、シニカレに関しては「そこまで主人公を否定するのも異常」なんだよね。←自分で気付いているところが幸なんだか不幸なんだか・・・・


これって、自分と他人を混同してるんだよね・・・・。それをつまり投影という・・・・。なるほどーー。投影した自分の影にびびった過剰反応だから不健全で気色悪いものになると。


この気色悪さがあらゆることに繋がっているような気がする・・・・。自分のことさえ、過剰に持ち上げては引きずり下ろすということを常にやっている気がする。



さて、自分がおかしくなってしまっている原因はここ数ヶ月で確定したわけだが、犯人探しには余り意味は無い。ただ、理由があっての事だとわかれば余り自分を責めずに済むってことなんだろう。それよりも、なのか、その次は、なのかわからないけども、自分の思考の癖に気づいて修正する作業こそが回復への道なんだよね。


健全な自分と不健全で生きにくい方法を選んでしまう自分との区別さえ混乱しているんだけど、そろそろどうにかなるのかな・・・。また、歩き出す気持ちになれるかな・・・・。