幸せ恐怖症
また同じところにいる。
ひとはひとりひとり特別な存在であっても、完璧に隔絶された孤独なものはいない。
どんなに奇妙であってもたったひとり特別なんてことは無い。
ここもきっと誰かがいたことのある場所。
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幸せ恐怖症という言葉を使った本を覚えている。
心理学の防衛なんとかという言葉を読んだ覚えもある。
どちらもあまり望んで読んだものではなく奇妙な偶然だったが。
「私には関係ないなー」と思った。
でも、残念ながら、そういうストーリーだ。
そういうストーリーなのかもしれないと疑ったこともあるけど、釈然としない。
個々のストーリーに完全一致は無いものだけど、
「ここが似てる」「ここはちょっと違う」という健全な判断ができない時、
ぼんやりしてしまう時、そこにはやはり「認めたくない」という思いがある。
「うまくいっている時ほどそうなるからね」という言葉が先月彼女の口から発された時、
何を思うよりも言葉よりも先に涙が流れた。
いつだって、閉じ込めておきたい思いがその存在をあらわにする時は、涙だ。
閉じ込めたまま知りたくなければ怒りになるだろう。
そこに光を当てる準備ができているか否か。
無理に引きずり出す必要はない、涙は、流される時には流される。
私がやっと今更そういう過程に来たのは、今まで封じられて来たそのわけは。
私は今安全だ。
私には今面倒な干渉からかなり自由な環境がある。
少なくとも現実的な戦闘状態からは開放されている。
これなくしてどうして心の開放ができようか。
そして、この8年間がどんなに大変なものだったか。
私には安全な居場所がどこにも無かった。
意識していようがいまいが、意志のあるところに道はできる。
どんなに否定しても、自分のほんとうにいきたい場所に行くことになる。
どんな呪いがかかっていても、呪いを解除できるものを、魂が捜し続けている。
がむしゃらであろうが受け身でいようが。スタイルはただの嗜好だ。
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献身ということに反吐の出そうな気色悪さを覚えることがある。
私はそれを知っている。
献身による支配を。
見返りがないと嘆くことになる、感謝されないと傷つくことになる、
当然だ。
支配で感謝は得られない。
正直で純粋なものは容赦無くそれに気づき突っぱねる。
無垢なものの残酷。
だから彼女は憎むのだ、
「純粋な人ってほんとうに酷い」
支配できなかった無力感が幼いものに向けられる残酷を彼女はわからない。
何故私がその人たちに似たものを表出するたびに打ちのめされたのか。
何故復讐が愛情の名をもって私に向けられるのか。
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何重にも隠蔽された攻撃。
親の七掛け幸福論、それに見合うような具体的なエピソードは皆無のように思える。
それを疑う関係の中にはもっとわかりやすい事例ばかりで。
でも、やっと見えた。
あの人は私が幸せになることなんか本心で望んではいない。それに自分でも気づいていない。
無意識の暴走は、見えない。巧妙に隠される。
そのほころびは至る所にあるのだけれど、見えない。