れぽーと

書くのめんどくてさぼったわ。
もう提出分だけでいいや。


7月24日
座法:
まあまあ集中できた。
呼吸がしづらくなる時は必ずどこか力んでいるので、
それを正しながらという感じ。

慈悲の冥想:
問題なし

他についてはさぼった。
新しい課題が増えたこと等に異常なプレッシャーを感じて負けた。


7月25日
慈悲の冥想:
問題なし

座法:
まあまあ集中できた。

ボディースキャン:
殆どさっぱりわからない場所だらけ。
顔と両手と背中は感じる。
肩は常に凝っていて重いのだが、
感じ取るようにすると、
右肩は何も感じなくなる。
左肩は重い。
左手の感覚も不快感がある。
背中に集中した途端、引き攣るような感覚があって
内側に丸まっていた姿勢が正された。

歩行瞑想:
かなり投げやりな気分のまま始めたのだが、
それでもなんとなく出来てしまう。
投げやりな気分もそれを判断せずに認めてしまうとなんてこと無いようだ。



なんつーか、ねえ・・・・・。
もう死んじゃいてえって思うと、
色々な思いが巡っちゃうわけだよね。
そういうことを思うことの情けなさ、不甲斐なさとか。
今までどれだけ耐えてきたかという重さとか。
これならそういう決断をしても誰にも自分を責められるはずはないと思いつつ、
色んな人が色んなことを思うであろう不愉快とか。
そんなの全部もうどうでもいいと思う虚しさとか。
色々、巡るわけで。
でもさー、そんな言い訳しなくてもいいんだよな。
「死んじゃいたい」ただそういう思いがあるのは事実で。
それはどうしようもないんだから。
思うだけで実際に息の音が止まるわけでもなんでもない、
ただ思うだけだ。
思ったっていいさ。
思ったんだから。
決断一つ、という崖っぷちにいる。
それは事実なんだから。
そんなことを思わざるを得ない苦しみだ、とか、
主張してみたところで何にもならん。
ただそう思うだけだ。
明日決断するかもしれない危機はあるけど、
それはそれで仕方ない。
意志でなんとかしようなんて思わないほうが楽だ。
ただ目の前の行為を選ぶだけだ。
今日は死ななかった、それだけで十分だ。
そこに無理に希望を見る必要も無い。
そう思った。